わたしは言葉の捉え方が、キリスト教徒と神道を信仰するわたしたち日本人とではどう違うか、考えを巡らせてみた。
キリスト教の聖書には冒頭部分に有名なフレーズがある。
はじめに言葉ありき。
「世界は言葉でできている」というような意味かとずっと思っていた。
少し調べたらどうも違うらしい。
「根源的原理は、世界を構成する論理としてのイエス・キリスト」というのが正しい訳のようである。
世界の根源はキリストの論理世界なのである。
その論理を伝えるために言葉があるのだ、というニュアンスをわたしは感じた。
言葉はツールなのだ。そんな印象を持つ。
一方、わが日本はどうか。
「言挙げせず」という言葉がある。
敢えて言葉として言わない、という意味だ。
言葉は神聖なものである。言葉には神が宿っている。だから軽々しく言葉を発しない。
「言霊(ことだま)」という言葉もある。
それも同じ意味なのだと思う。
キリスト教文化では、言葉はツールである。
一方、我が国では言葉は神聖なものである。
もちろんこんな単純ではない。
でもこういう角度から世界のできごとや歴史をみると、見えてくるものがある。