謎とされている。
古今集は醍醐天皇の勅命によって撰進された我が国最初の勅撰和歌集だ。
成立は、仮名序によれば延喜五年(905)四月十八日。
千年以上前の平安時代につくられたのに、月日まで特定できるのは、かなりレアなケースだ。
作られた背景には、もちろん和歌の隆盛がある。
古今集が編纂される100年前、嵯峨天皇、淳和天皇の御代は唐を模した政策・文化に満ちた時代であった。
文芸方面では天皇と臣下が漢詩を詠みあった。
当然、漢詩集の編纂も続いた。
いわゆる唐風謳歌時代である。ちなみに、わたしが大学生のころ、国文学の教員は国風暗黒時代であると教えてくれた。
栄華を誇った唐王朝は次第に国力を弱めて、907年ついに朱全忠に皇位を禅譲して王朝としては滅亡し、一地方政権に成り下がる。
平安朝の空気も唐から和へと揺り戻しが起きた。
こうして醍醐天皇のひとつ前の御代、宇多天皇の時代、和歌が盛んになった。
歌合せも盛んに催された。
しかし、宇多天皇は勅撰和歌集の編纂には着手されなかった。
宇多天皇が勅撰和歌集の構想をお持ちになっていたかどうかは分からない。
そして醍醐天皇は勅命を発し、和歌集の撰進となるわけだが、どうして醍醐天皇は勅命を発せられたかは、資料が残っていなくてはっきりしない。
興味深いのは、紀貫之を中心とする撰者四人は万葉集を勅撰集と考えていたことだ。
現代に生きる人たちのなかに、万葉集を勅撰集と考える人たちはどれくらいいるだろうか。
撰者は万葉時代の和歌を「古」、その万葉和歌を継承する和歌を「今」として両方から歌を選んだ。
だから「古今和歌集」なのである。
撰者たちは、万葉集を理想の古代とみて、万葉集の伝統の継承と発展を目指した。
唐風の空気が薄まり、国風の濃度が高まった時代、撰者たちはもういちど自分たちの文化を掘り起こしていった。それはどうしてなのか。
醍醐天皇は、古と今の両面から歌を撰するという構想がおありになったのか。
気になることはいくつもあるが、謎は謎のままで、あれこれと考えるのは楽しい気がする。