季節は急に秋めいたきた。日中、陽が出ているときは汗ばむほどだが、夕方になると、冬の厚手のシャツを着て、冬用の外出着をはおって丁度いい。
姪のMがSの家に来た。最近、文学が読みたくなったという。Mは都内の大学に通っている。
小説を読んでみたいと思って純文学作品を手に取ってみたが、面白さがどうも分からない。
ざっくりといえば、こんなことをMは言った。
Sは小説について少し、考えた。最近はYouTubeで文学作品を語る人が増えている。
「人間関係に疲れたときにはこれを読め!」というふうに、あたかもクリニックのドクターが「あなたの症状はこうだから、この薬が効きます」と言って、ある薬を処方してくれるようなものだ。
文学作品とは、そういう対処療法の薬のようなものだろうか。確かにそういう面もあるだろうが、本当は違うのではなかろうか。
悩みを持って文学を読む。読み終えると、悩みが解消されるどころかさらに深くなる。でも、読む前の悩みと読んだ後の悩みは、その質が違う。
その違いを実感することを繰り返しながら、自分なりの回答を発見するのではなかろうか。それが文学を読むということではないか。
文学を読むとは何かと問われれば、いろいろ言えるだろうが、こういうことも大事なことではないか。
SはこんなことをMとの会話のとき考えたが、Mに言うのはやめた。
Mには、もっと違う言い方があるはずだと思ったからである。でもそれが何かは、そのときSには思いつかなかった。
翌日、風呂からあがったときに、それが何か考えた。
頭の中はまだ整理がつかなかったが、「文学する」という言葉がふさわしいように思えた。
「文学を読む」ではなく「文学する」である。
鬼怒川温泉。栃木県を代表する温泉街である。鬼怒川渓谷沿いに旅館が立ち並ぶ。
Sはあしたから鬼怒川温泉へ旅行に行く。
旅館の近くに寺社や遺跡はないかと、ネットで探した。Sは旅行に行くと、観光地というよりも、そうしたところを見るのが好きである。
今年の夏、水上温泉に行ったときは、山の中にある縄文人の住居跡を訪ねた。無論、そうした遺跡を訪ねる観光客は極少数で、Sが行ったときも、ほかに誰も来ていなかった。
ネットで探していると、佐貫石仏というのを見つけた。鬼怒川沿岸の高さ64メートルの岩石に大日如来が彫られているだという。摩崖仏というものだ。
風化が激しく、彫られた線はほとんど残っておらず、パンフレットに書かれた石仏の図をたよりに、訪れた人は拝観しているのだという。
Sはこれまで、岩盤に彫られた石窟は、中国の大同と千葉県の日本寺で見たことがある。今回見られることをとても楽しみにしている。
