令和五年10月28日 文学する

季節は急に秋めいたきた。日中、陽が出ているときは汗ばむほどだが、夕方になると、冬の厚手のシャツを着て、冬用の外出着をはおって丁度いい。

姪のMがSの家に来た。最近、文学が読みたくなったという。Mは都内の大学に通っている。

小説を読んでみたいと思って純文学作品を手に取ってみたが、面白さがどうも分からない。

ざっくりといえば、こんなことをMは言った。

Sは小説について少し、考えた。最近はYouTubeで文学作品を語る人が増えている。

「人間関係に疲れたときにはこれを読め!」というふうに、あたかもクリニックのドクターが「あなたの症状はこうだから、この薬が効きます」と言って、ある薬を処方してくれるようなものだ。

文学作品とは、そういう対処療法の薬のようなものだろうか。確かにそういう面もあるだろうが、本当は違うのではなかろうか。

悩みを持って文学を読む。読み終えると、悩みが解消されるどころかさらに深くなる。でも、読む前の悩みと読んだ後の悩みは、その質が違う。

その違いを実感することを繰り返しながら、自分なりの回答を発見するのではなかろうか。それが文学を読むということではないか。

文学を読むとは何かと問われれば、いろいろ言えるだろうが、こういうことも大事なことではないか。

SはこんなことをMとの会話のとき考えたが、Mに言うのはやめた。

Mには、もっと違う言い方があるはずだと思ったからである。でもそれが何かは、そのときSには思いつかなかった。

翌日、風呂からあがったときに、それが何か考えた。

頭の中はまだ整理がつかなかったが、「文学する」という言葉がふさわしいように思えた。

「文学を読む」ではなく「文学する」である。

鬼怒川温泉。栃木県を代表する温泉街である。鬼怒川渓谷沿いに旅館が立ち並ぶ。

Sはあしたから鬼怒川温泉へ旅行に行く。

旅館の近くに寺社や遺跡はないかと、ネットで探した。Sは旅行に行くと、観光地というよりも、そうしたところを見るのが好きである。

今年の夏、水上温泉に行ったときは、山の中にある縄文人の住居跡を訪ねた。無論、そうした遺跡を訪ねる観光客は極少数で、Sが行ったときも、ほかに誰も来ていなかった。

ネットで探していると、佐貫石仏というのを見つけた。鬼怒川沿岸の高さ64メートルの岩石に大日如来が彫られているだという。摩崖仏というものだ。

風化が激しく、彫られた線はほとんど残っておらず、パンフレットに書かれた石仏の図をたよりに、訪れた人は拝観しているのだという。

Sはこれまで、岩盤に彫られた石窟は、中国の大同と千葉県の日本寺で見たことがある。今回見られることをとても楽しみにしている。