Author: YOMO

  • 令和五年11月1日 西方城

    令和五年11月1日 西方城

    栃木市は関東平野の北の端だ。ここまでは平らな地面が南からずっと続いていた。ここからは山がある。

    クルマで東北道を北上すると、ここ栃木市あたりで景色が一変する。

    車幅の広い高速道の両側に緑いっぱいの山が現れ、東北地方に向かっていることを実感させる。

    秋風に
    誘われクルマ
    走らせる
    緑の山が
    迎えてくれた

    西方(にしかた)城は戦国時代の山城だ。

    標高200メートルほどの山を活かして、城の縄張りが工夫されている。

    西方城のあった山をふもとから眺めた。

    戦国の
    つはものたちが
    命かけ
    守る砦よ
    西方の城

    西方の
    城跡残る
    青き山
    秋の日浴びて
    領地見守る

    矛とりて
    まもれこの地を
    いくさびと
    秋風そよぐ
    西方の里

  • 令和五年10月31日 蒸気機関車

    令和五年10月31日 蒸気機関車

    11月に入ろうとしているのに、鬼怒川の木々は緑のままであった。今年の紅葉は、例年より1週間ほど遅いという。

    Sは、国道121号を鬼怒川温泉に向かってクルマを運転していた。国道のすぐ左側には、東武鉄道日光線が並走している。

    クルマを飛ばしていると、日光線に青色の客車が走っているのが見えた。特急列車も通勤電車も、機関車が客車を引くという時代は終わってもう長い年月がたつので、Sは客車というものを見たことがない。

    客車の前方を見ると、黒い鉄の塊が見える。SLが客車を引いていた。動くSLを見たのは、これもまた初めてである。

    SLは思った以上にゆっくり走っていた。煙突から煙を吐き、蒸気を吹き出し、せわしく車輪を動かしているので、高速で動いているようだが、実際は30キロくらいのスピードである。

    Sのクルマはすぐに客車の後ろに追いつき、そのまま客車と並走した。何秒か客車の横を走っていると、先頭で客車を引いているSLと並んだ。

    SのクルマはSLを追い越した。精一杯の力を出している鉄の塊は、だんだん後ろへ去っていった。

    SLを
    追い越すクルマ
    運転す
    スピードだけが
    大事じゃない


  • 令和五年10月30日 鶏頂山スキー場

    令和五年10月30日 鶏頂山スキー場

    鬼怒川から鶏頂山を越えて那須塩原へ通じるルートが紅葉ラインだ。

    宿泊したホテルのあたりは紅葉が始まったばかりだが、鶏頂山の山頂に近づくにつれて木々が色づき始めてきた。

    日光いろは坂のような急カーブをいくつも曲がり、頂上に着くと、山一面が紅葉の盛りであった。

    頂上付近には、スキー場がいくつもあった。雪の季節ではないので、営業はしていない。スキー場の広いゲレンデを見るのは35年ぶりくらいだ。

    ゲレンデは緩やかな傾斜をつくりながら奥に向かって扇のように広がっている。地面は青々した草で覆われていてた。

    山に登るゴンドラを営業しているスキー場があった。ゴンドラに乗りながら鶏頂山の一面の紅葉を愛でようというのだろうか。

    ロッジは、巨大な西洋館のようだ。ロッジの前は広い駐車場だ。満車であった。

  • 令和五年10月29日 鬼怒川渓谷

    令和五年10月29日 鬼怒川渓谷

    鬼怒川温泉に来ている。

    ホテルの部屋は6階である。窓から下を見ると鬼怒川渓谷だ。深緑の水がじっと動かずにある。そばには白色の大きな岩がいくつも不規則にどっしりと置かれている。

    目を上げれば渓谷から山が垂直に盛り上がる。山にある木々はまだ緑色だ。今年は夏が暑く、紅葉の時期が遅い。ちらほらと色ずいている葉がある。あと1週間もすれば紅葉が満開となるだろう。

    ホテルの玄関を出たところに、鬼怒川渓谷に掛けられた長いつり橋があった。どれくらいの長さかうまく見当がつかないので、スマホで調べたら140メートルだ。

    渓谷の向こう側に吊り橋を渡り行ってみた。向こうに着くと、橋のたもとに石造りの神様が祀ってあった。神様かと思ったら楯鬼という鬼であった。楯となって鬼怒川を守る鬼だという。

    ホテルの部屋に戻り、スマホで鬼怒川渓谷のことを調べた。ここは鬼怒川の名称「楯岩」ということを知った。

    まさしく、巨大な岩が縦に聳えている。

    渓谷を見やると、観光客を乗せた船が渓流を下って行った。

    船頭の
    櫓の音響く
    渓流を
    人満載の
    船下り行く

    龍王峡
    渓谷流れる
    水の音
    谷底におり
    肌に染み入る

  • 令和五年10月28日 文学する

    令和五年10月28日 文学する

    季節は急に秋めいたきた。日中、陽が出ているときは汗ばむほどだが、夕方になると、冬の厚手のシャツを着て、冬用の外出着をはおって丁度いい。

    姪のMがSの家に来た。最近、文学が読みたくなったという。Mは都内の大学に通っている。

    小説を読んでみたいと思って純文学作品を手に取ってみたが、面白さがどうも分からない。

    ざっくりといえば、こんなことをMは言った。

    Sは小説について少し、考えた。最近はYouTubeで文学作品を語る人が増えている。

    「人間関係に疲れたときにはこれを読め!」というふうに、あたかもクリニックのドクターが「あなたの症状はこうだから、この薬が効きます」と言って、ある薬を処方してくれるようなものだ。

    文学作品とは、そういう対処療法の薬のようなものだろうか。確かにそういう面もあるだろうが、本当は違うのではなかろうか。

    悩みを持って文学を読む。読み終えると、悩みが解消されるどころかさらに深くなる。でも、読む前の悩みと読んだ後の悩みは、その質が違う。

    その違いを実感することを繰り返しながら、自分なりの回答を発見するのではなかろうか。それが文学を読むということではないか。

    文学を読むとは何かと問われれば、いろいろ言えるだろうが、こういうことも大事なことではないか。

    SはこんなことをMとの会話のとき考えたが、Mに言うのはやめた。

    Mには、もっと違う言い方があるはずだと思ったからである。でもそれが何かは、そのときSには思いつかなかった。

    翌日、風呂からあがったときに、それが何か考えた。

    頭の中はまだ整理がつかなかったが、「文学する」という言葉がふさわしいように思えた。

    「文学を読む」ではなく「文学する」である。

    鬼怒川温泉。栃木県を代表する温泉街である。鬼怒川渓谷沿いに旅館が立ち並ぶ。

    Sはあしたから鬼怒川温泉へ旅行に行く。

    旅館の近くに寺社や遺跡はないかと、ネットで探した。Sは旅行に行くと、観光地というよりも、そうしたところを見るのが好きである。

    今年の夏、水上温泉に行ったときは、山の中にある縄文人の住居跡を訪ねた。無論、そうした遺跡を訪ねる観光客は極少数で、Sが行ったときも、ほかに誰も来ていなかった。

    ネットで探していると、佐貫石仏というのを見つけた。鬼怒川沿岸の高さ64メートルの岩石に大日如来が彫られているだという。摩崖仏というものだ。

    風化が激しく、彫られた線はほとんど残っておらず、パンフレットに書かれた石仏の図をたよりに、訪れた人は拝観しているのだという。

    Sはこれまで、岩盤に彫られた石窟は、中国の大同と千葉県の日本寺で見たことがある。今回見られることをとても楽しみにしている。

  • 令和五年10月27日

    令和五年10月27日

    Sは二日酔いであった。

  • 令和五年10月26日 大回り乗車 蘇我

    令和五年10月26日 大回り乗車 蘇我

    夕食をとったあと、ソファでコーヒーを飲みながらJR東日本の路線図を眺めていたSは、蘇我駅を活用した大回り乗車を思いついた。

    Sが住んでいる船橋から総武線快速で千葉駅へ。内房線に乗り換えて蘇我駅へ行く。ここで京葉線に乗り換え南船橋まで行き、最後は武蔵野線で西船橋駅へ到着するというルートだ。

    所要時間はざっと見積もったところ、どれも通勤路線であるので日中でもそれなりに本数はあるだろうから、2時間もかからないであろう。

    そう考えたSは次の日、早速この大回り乗車を実行することにした。

    翌日、気持ちのよい秋晴れの日であった。午前11時ごろ船橋駅を出発した。車窓は、晴れ渡った青空をバックに、住宅やビルが休みなく後ろへと流れていく。Sは見ているだけで気分爽快であった。

    Sが乗った車両はE217-38であった。

    津田沼を過ぎて千葉へ近づくと、前方の景色が見たくなり、先頭車両の一番前、運転手のすぐ後ろに移動した。

    千葉駅は総武線快速と各駅、外房線、内房線の乗り換え駅で、10番線まである千葉県の巨大ターミナル駅だ。

    駅に入る前、線路はカーブを描きながらいくつもに分岐し、横方向に広がっていくさまは壮観である。

    千葉駅ではNewDaysで飲み物を買った。NewDaysはJRが運営するコンビニだ。Sは、運賃が安いのだか。できるだけJRが運営する店舗でお金を使ってあがようと出発する前に決めたのである。

    ここで内房線に乗り換えた。待ち合わせ時間は15分ほどだった。乗った車両はE235-1023である。車内は真新しい感じが漂っている。

    海側の車窓には、海岸にある工場群の高い煙突が数本そびえたっているのが見える。

    間近に見たら、直径が何メートルもある巨大な煙突なのだろうが、はるか遠くから眺める煙突は、机の上に立てた鉛筆のようで、直立しているのが心細い。  

    蘇我駅まで乗った。ここで京葉線に乗り換えた。待ち合わせ時間は5分ほどと、とても接続がいい。

    船橋駅を出るときは、蘇我駅で乗り換えは時間があくだろうから、駅の中を研究できると思っていたが、あてが外れた。

    京葉線の車両はE233-5009だ。これまでは東に向かって進んできたが、ここ蘇我駅で折り返し、西に向かって進む。

    海側を見ると、さきほど内房線から見えた工場群がより間近に見えた。

    さらに進むと、倉庫が立ち並ぶ。京葉線沿線はこのあたりから都内まで、業種を問わず企業の物流施設が延々と連なる。

    南船橋で降りた。ここで武蔵野線に乗り換える。武蔵野線は日中は本数が少ないので、待ち時間に駅構内にあるBecksコーヒーショップで一休みしようと電車に乗っているときから思っていたが、Becksは閉店していた。

    BecksもJR関連の企業が運営している。Sは、安い運賃で乗らせてもらっているかわりに、ほかのものでJRグループの売り上げをあげようやろうと思ったのだ。

    看板はまだ掛けられていたから、時期がくれば再開するのかもしれないが、閉店してから大分時間がたっているような雰囲気であった。

    武蔵野線の電車に乗り込んだ。車両はE231-24である。最終目的地の西船橋駅はここからひと駅だ。

    西船橋駅を出発した電車は、工場、倉庫、事務所ビルなどを下に見ながら、大きく右にカーブを描いて走る。

    ほどなくして西船橋駅に着いた。改札を出て、西船橋駅の駅ビルにあるてんやで遅めのランチを取り、きょうの大回り乗車を終えた。

  • 令和五年10月25日

    令和五年10月25日

    Sの家の近くに不思議な古本屋がある。

    通り沿いにある、築50年は経っていようかという古い木造建築の一軒家で、店の広さは六坪ほどだろうか。小さな古本屋だ。

    年配の夫婦が経営している。店先に出て客の相手をするのは奥さんである。旦那さんは店の奥にいて、何か作業している。

    客の応対は奥さんがするが、それはSのような店にとって軽い客の場合で、恐らく大事な客はご主人も出てきてふたりで対応するのであろう。

    店の書棚に並んでいるのは人文系である。ざっと見たところ、文学や思想の方面が多い。

    もともとは神保町で古書店を営んでいたが、歳をとったので神保町の店は畳んで千葉のほうへ来たというのを、Sは奥さんから聞いたことがある。

    本の品ぞろえがSの趣味なので、Sはこの古書店を気に入っている。しかし、なかなか店に行けないのだ。営業日が不定期だからだ。

    ある日曜日、近所の用事を済ませたSの妻が「あの古本屋、開いているわよ」とSに言った。

    Sは早速行きたかったが、昼食を取るところであり、食事が済んだらすぐに行こうと思った。

    食事を急いで済ませた。家を出て古本屋に行くまでのあいだ、道を歩きながらSはきょう買いたい本のことを考えた。日本文学の本を何冊か買おう、できれば近代文学がいいかなと思った。

    店の近くまで来ると、シャッターが閉まっている。妻が開いているというのを聞いてから1時間も経っていない。

    店の老夫婦は恐らく、閉めっぱなしでは店の中が黴臭くなるので、空気の入れ替えに来たのだろう。

    次に店が開いているときは、きっと行きたいものだとSは思った。

  • 令和五年10月24日

    令和五年10月24日

    JR東日本ブースを出たSは、NEDOブースに入った。ここは、先ほどのJR東日本ブースよりよほど広かった。

    ブースの中は、次世代DX、ポスト5G、スマートIoTの3エリアに分かれていた。

    技術方面の仕事をしていると思しき男性来場者たちがたくさんブースにいて、熱心にアテンドの人と話をしたり、展示パネルを読んだりしていた。

    Sは、空飛ぶクルマという文字を、ブースの中に掛けられている説明パネルの中から見つけた。

    空飛ぶクルマとはどういうものか、まったく想像つかなかったが、面白そうだなと思った。

    「次世代空モビリティの社会実装に向けた実現プロジェクト」という、技術のことには明るくないSにとっては、何のことかまったく分からない事業を説明するコーナーで紹介されていた。

    Sは早速、空飛ぶクルマとは何かとアテンドしている男性に聞いた。

    男性は40代半ばだった。表情は豊かで、話し方は相手が分かりやすいよう気配りが感じられ、それでいて自分の主張はしっかり伝えようという姿勢がうかがわれた。営業職のような雰囲気の人であった。

    話を聞くと、どうもヘリコプターのようなものらしい。ヘリコプターはプロペラがひとつだが、空飛ぶクルマはいくつものプロペラをつけているのだそうだ。

    「クルマ」と呼ばれてはいるが、地上をタイヤで走ることはないという。

    今度の大阪万博でデモ飛行を行う計画であると、ブースの男性は話した。

    Sは不思議に思った。そういう乗り物ならば「クルマ」と呼ぶのは不適切ではないか。もっと別のネーミングがふさわしい。

    少し考えて「そうか分かった」とひとりごちた。クルマメーカーが開発しているに違いない。もしかしたらトヨタだろう。だから空飛ぶ「クルマ」なのだ。

    説明員の男性に、その旨質問した。答は意外なものだった。

    「クルマメーカーとは全然関係ありません」

    それならば、開発しているのはスタートアップ企業であろうとSは考えた。ロケット開発を行うスタートアップ企業もある。そういうことを知っていたSは、何となくスタートアップ企業が手掛けているのではないかと考えた。

    説明員に質問すると、そうだと言う。トヨタを辞めた人が会社を起こして開発しているのだそうだ。

    トヨタ本体ではなくて、トヨタを辞めた人が開発しているのは、なかなか面白い。

    Sは、空飛ぶクルマについていろいろ話ができて、興味が湧いてきた。

  • 令和五年10月23日

    令和五年10月23日

    Sは朝早く、電車とバスを乗り継いで、自宅から幕張メッセで開かれているCEATECの会場に行った。

    秋晴れで気持ちのいい日だ。車窓から見る景色は、太陽の光で輝いているようだ。

    幕張メッセに着いて、CEATEC会場の案内図を見ると、5つのホールを使って開かれている。

    5ホールを使うイベントといえばかなり大規模だが、かつては1から11ホールまで、幕張メッセ全館を使って開かれていたこともあったはずだ。

    もう、いまから20年近く前だろうか。Sはその全盛時代のCEATECを見に来たこともあった。

    「随分と規模が小さくなったなものだ」と思ったが、「会場が巨大でないので、歩き回らなくても済みそうだ」とも安心した。

    会場をぐるりと見渡した。するとJR東日本のブースが目に入った。

    Sは近頃、鉄道が趣味となっている。

    「JRが一体どんな展示をしているのだろう」と俄然興味が湧いたSは、JR東日本ブースのほうへ歩き出した。

    JR東日本はこじんまりとしたブースで出展していた。ブース内では7つくらいのサービスが展示されいた。

    全部を見ていたのでは時間が足りなくなるので、Sはそのうちからいくつか気になったサービスの説明パネルを読んだ。

    Virtual AKIBA World

    駅カルテ

    鉄道車両VR

    空飛ぶクルマVRコンテンツ

    この日Sは、JR東日本が展開しているこの4つの新サービスを知った。

    説明パネルを読んで分からないところを、そばに立っている説明員に質問した。ブース内でアテンドしている説明員は、みな30代と見えた。どの人も丁寧に説明してくれた。

    Sは「今の鉄道会社はなかなか面白いことをやっているものだ」と感心した。

    この会場でSは「空飛ぶクルマ」というのを知った。

    JR東日本のブースをでて少し歩くと、NEDOのブースで空飛ぶクルマに関する展示があるのに気付いた。さっそくNEDOブースへと足を踏み入れた。

  • 令和五年10月22日

    令和五年10月22日

    Sにとって自衛隊は、子どもころから30年間ほど身近な存在ではなかった。

    結婚して千葉県の船橋に住むことになると、自宅の上空を自衛隊の航空機が頻繁に飛ぶのを、はじめは不思議そうに眺めていた。

    あるとき地図を広げてみると、船橋周辺には自衛隊の施設が多く、そのことを意外に思った。

    陸上自衛隊の駐屯地があり、演習場まである。自衛隊の演習場といえば富士山麓しか知識のないSは、自宅近くに演習場があることに驚き、関心を持った。

    海上自衛隊の航空基地もあった。海が専門の海上自衛隊に航空基地があることが、軍事に疎いSにとってまるで理解できなかった。

    調べてみると、対潜哨戒機の乗員を教育・訓練する施設であることを知った。

    隣の習志野市や市川市、松戸市にまで目を広げると、数えきれないくらいの自衛隊施設と敗戦までの陸軍、海軍施設跡があり、信じられない思いだった。

    ある年の初夏のころ、最寄りの海上自衛隊航空基地が一般開放することを知った。

    Sは参加してみることにした。当日は、東武野田線の小さな駅から、基地へ向かうバスが特別に運行された。

    バスに乗っている間は、車窓を見ていた。商店や民家を通り過ぎてしばらくすると、有刺鉄線が上端に付けられたフェンスが長々と張られ、背の高い草が一面に茂っている光景を見た。

    そしてその草の先には、広大な滑走路が横たわり、ところどころに設置してある、飛行のための何かの施設小屋が、とても美術的な建築に思えた。

    これがSの基地初体験である。

    令和5年10月、海上自衛隊の航空基地が一般公開され、Sはまた参加した。

  • 令和五年10月21日

    令和五年10月21日

    彼が幕張メッセへ行くのは4年ぶりだろうか。

    千葉県が誇る国際コンベンションセンターである幕張メッセ。1989年に開業した。

    いまは国内各地に本格的コンベンションセンターがあるが、幕張メッセの開業した当時は、国内には本格的コンベンションセンターはなく、幕張メッセが唯一の国際的コンベンションセンターであった。

    その後、東京ビッグサイトが開業し、稼働率が低下したことがあったが、近年は音楽やゲーム関連のイベントが多数開かれ、再び存在感を増してきている。

    彼の家から幕張メッセへ電車で行くには、3つルートがある。

    ひとつは、JR総武線各駅で幕張本郷駅へ行き、そこから京成バスに乗る。

    ふたつめは京成線で京成津田沼駅乗り換え、幕張本郷まで行く。そして京成バスに乗る。

    3つ目はJR総武線各駅で西船橋駅に行きJR武蔵野線に乗り換え南船橋駅へ。そこからJR京葉線に乗って海浜幕張駅まで。そこからは歩いて幕張メッセに行ける。

    きょうは京成線を使ってみようと、彼は思った。久しぶりに京成津田沼駅に行ってみたかったからである。

    京成津田沼駅は、成田方面へ向かう京成本線、千葉やちはら台へ向かう京成千葉線・千原線、そして新京成線が乗り換えられる、京成電鉄の千葉におけるターミナル駅だ。

    駅は便利なように改築しているところが多いが、基本的には古い施設がそのままであり、ホームは特に趣がある。

    彼は近年、俄かに鉄道への関心が高まった。世にいう「てっちゃん」である。

    彼は小さい頃から鉄道に興味があった。小学校にあがる前は、近所を走る鉄道を父親と見にいった。いや、親が連れて行ってくれたというべきであろう。

    多くの男の子たちは、小さい頃は鉄道が好きである。でも、成長するにしたがって、鉄道は単に移動のための道具とみなしていく。

    しかし彼は鉄道への関心は途切れることなく、小学校の高学年になると、鉄道模型が好きになった。クラスの中のH君も鉄道模型が好きだった。ふたりでよく鉄道模型を見せ合った。

    H君はとても器用だった。厚紙を使って、東武鉄道の特急きぬ号の模型を自分で作った。

    きぬ号のボンネットや運転席付近の複雑な構造も見事に拵えてあり、彼は見せてもらって、H君の技量に驚き、尊敬の念を抱いた。小学校5年生のときである。

    中学に入ると鉄道への関心は薄くなり、鉄道趣味とは疎遠になった。

    それから40年ほどがたち、再び鉄道趣味が再燃した。

    幕張メッセではCEATECが開催中であった。

  • 令和五年10月20日

    令和五年10月20日

    上野へモネの展覧会を見に行く。

    JR上野駅の公園口を出る。以前は改札を出ると道路を渡らなければならなかったが、近年、駅前を再開発して道路をなくし、改札前を広場のようにした。

    駅の改札を出て、そのまま上野公園につながる空間ができあがった。

    文化会館の脇を通り、パンダ橋と彫られた大きな石を左手に見ながら、会場の上野の森美術館へ向かう。

    この美術館は産経グループが運営している。大手メディアはどこも美術展を主催しているが、美術館を持っているのは産経だけではなかろうか。

    美術展の構成は、モネの画業生涯を見渡せるものだった。

    印象派以前から、印象派に至り、晩年の作品までが網羅されていた。画家としてのキャリアをスタートさせたころは、サロンに2回入賞するも、その後はモネの画風とサロンの審査方針とがあわず、独自の展覧会を開き、それが印象派へとつながったのは有名な話だ。

    モネは太陽光によって色彩が生まれることに気づいた。モネ以前の画家にとって太陽光は、暗いか明るいかであった。レンブラント式であった。強調したいところは明るくして、ほかは暗くした。

    モネは自然に生まれる色彩を描こうとした。しかもその色彩は太陽光の反射によって生まれているものであり、太陽光は刻一刻と変化するから、反射の具合も刻一刻と変わる。

    モネは、その変化をキャンバスに生み出そうとした。それは絵画史において、画期的な偉業であったけれど、モネにとっては苦しみが始まった瞬間でもあったろう。

    モネの生涯の作品を通覧して、そう思った。

  • 令和五年10月19日 木下街道

    令和五年10月19日 木下街道

    最近、芭蕉が書いた「おくの細道」「笈の小文」を読んでいる。

    旅に病んで
    夢は枯野を
    かけめぐる

    芭蕉、辞世の句。大坂で詠んだ。

    芭蕉は旅に生きた。

    旅に出て
    旅に苦しみ
    旅に病む
    旅を住処に
    生涯閉じる

    芭蕉のような生涯を送るのも幸せかもしれない。

    まだ俺には、その覚悟ができていない。

    地元の地名について、さらに書く。

    地元に、木下街道という通りがある。「木下」で「キノシタ」ではなく「キオロシ」と読む。

    浦安から市川、船橋、鎌ヶ谷を北へ向かって走り、利根川につきあたる。そこが「木下(キオロシ)」という町である。

    江戸時代、木下では利根川の上流から運んできた材木を陸揚げしたのかもしれない。「木を船から下ろす」でキオロシ。

    このように考えているのであるが、如何であろうか。

    地名とは、地域に慣れ親しんだ、住民の財産である。
    文化や歴史と密接に関わっている。

    どこかでこんなことを読んだ。まことにそのとおりである。

  • 令和五年10月18日

    令和五年10月18日

    地名の由来は興味が尽きない。

    住んでいる近くに「北方」という地名がある。
    「ボッケ」と読む。
    中央競馬会の中山競馬場のあたりを指す地名だ。
    競馬場入口のすぐそばにある交差点は「北方十字路」(ぼっけじゅうじろ)という。
    しかし数年前、行政が北方を「キタカタ」と呼ぶことに変えてしまった。
    いまは「きたかたじゅうじろ」と呼んでいる。

    読み方を変えたのは、知らない人は「ボッケ」と読めないからという理由に違いない。

    あるいは「ボッケ」という発音が聞き苦しい、という理由もあったような気がする。

    長い間伝わってきた歴史ある言い方を、そのような理由で簡単に変えてしまうのは宜しくない。

    わたしは長い間、なぜ「ボッケ」なのか、疑問であった。
    先日、地元の年配の人に質問した。その答が意外すぎた。

    その方はこう言った。

    「アイヌ語の崖という意味です」

    アイヌ語??
    崖??

    あまりの思いもよらない答に、しばし絶句であった。

    その方は、どうしてアイヌの言葉がここの地名となったか、詳しい由来は分からないようであった。
    昔から、地元ではそのように伝わっているのである。

    家からほど近いとこに、「赤北方」という地名もある。
    こちらは「アカボッケ」と読む。

    その方が言うには、赤土の崖があったから、そのような地名が付いたのだ。

    それにしても、なぜアイヌの言葉なのか? 疑問はまったく解明されていない。

    このあたりは昭和のある時期、北海道の炭鉱が閉鎖になり、そこで働いてた人たちが多く移住してきたという歴史がる。

    その人たちがアイヌ語を持ち込んだのだろうか?

    そうかもしれないが、わたしにはひとつの仮説がある。

    中山競馬場の近くに(北方十字路の近くに)法華経寺という寺がある。
    日蓮ゆかりの寺で、境内の建物の4つが重要文化財指定である。

    俺が思うに、「ボッケ」という言い方は、法華経寺の「法華=ホッケ」が由来ではないか。

    俺が住んでいる「法典=ホウデン」、本来は「法伝=ホウデン」という地名も、「法を伝える」との意味ではなかったか。

    「ホッケ」「ボッケ」「ホウデン」
    つながりがあるように思うのだが如何だろう